菊地によれば、道教とは、教祖がいて、教義があり、教団がある、といったいわゆる学問的な観点からの宗教ではなく、中国の民間信仰に根ざしたものあるという。
菊地は、『老子』にある道の定義、水が流れる谷あるいは淵というイメージを紹介しながら、道教とは、この世のあらゆるものが流れ込み、それを受け入れる、というわかりやすい表現で、道教の本質を表そうとしている。
中国における山岳信仰、年中行事、文学との道教のつながり。日本への道教の影響、日本における道教研究の流れなど、道教にまつわる様々なテーマを、平易な文章で紹介し、道教という、この捕らえ所のないものを、しっかりと捉えないように、常に、指の間から、こぼれ落ちてしまうように、道教の周りをぐるぐる回るように、私たちをその世界に引き入れていく。
そこから浮かび上がってくるのは、道教というよりは、むしろ、中国という存在の、1つの側面だ。
中国というと、最近では、経済発展、共産党の独裁、など、お金や政治にまつわるイメージが強い。それはそれで中国のある一面だが、その反面、道教に代表されるような、別な側面も併せ持っている、ということを、あらてめて教えられた。
As kikuchi, Taoism is not typical religion which has a guru, a doctrine and a cult. Taoism includes folks beliefs and everything on the ground.
Kikuchi tries to explain by various topics like mountain worship, annual events, literatures and the relationship with Japan. He doesn't define Taoism clearly because Taoism is improper to be mentioned like that.
We see China mainly from a economic and political aspects recently. But we should consider another suspects like Taoism.
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